白鳳流の歴史-4 of 白鳳流合気武道公式サイト


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白鳳流合気武道公式サイト Last Updated 2014-10-15

白鳳流合気武道の歴史


大東流、合気道、琢磨会

植芝盛平先生と武田惣角先生との関りからの経緯を汲んでおりますので、長編ドキュメンタリーの様相を呈してしまいますので、ここは超簡潔に申し述べます。植芝先生は武田惣角先生に就いて20年修業し大東流教授代理にもなっていましたが大東流合気投げを主体とした独自の方向を模索されていました。久先生が植芝先生に習ったのはこの時期に当たります。昭和10年頃です。まだ合気道と云う名称が出来る前のことで、久先生の習った技は朝日新聞でやると云うことで大日本旭流と称していた位です。
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その後、武田惣角が植芝にはまだ十分教えておらん。習うなら我より習えと大阪朝日本社に突然現れたことから久先生は両師に師事することになります。或る日、実は先生の先生と云う武田惣角と名乗る方がこの朝日に来られていると告げると植芝先生は急いで大阪を去ったと云われていました。通訳で呼ばれた若き時宗先生が(歯が抜けて会津弁で話す惣角先生には通訳が必要でした)朝日の皆さんには基本技から教え直しましょうと言われたのに対して、わしの教授代理(植芝盛平)が教えていたのだからその必要はない、と様々な技を次から次へと教えて行ったそうです。これが後に総伝技として久先生が纏められたものになります。

時宗先生が帰られ、山形から佐藤啓輔教授代理が来阪された時、刀根舘営業局長から「先生の映画を撮って残して置きたいが、あなたからそれを先生に頼んでくれないか」と依頼され寝床でその話を惣角先生にされたところ「誰から頼まれたのか」と聞かれ「新聞社が先生の技を残してくれるのだから、残すとなると莫大なお金も掛かるし撮らせてあげたら良いのではないですか」と答えられると「お前がそう勧めるのならその様にしても良いと言われたそうです。1995年佐藤啓輔先生から逆に私に対して撮ったことは間違いないから探してくれと頼まれた位ですから16ミリに撮られたことは確かでしょう。有れば惣角先生の動きを是非とも観て見たいものです。

こんな経緯もあって、総伝技を継承錬磨する琢磨会には基本技がなかったのです。惣角先生のインスピレーションによる技を稽古の後に門弟同士で撮った写真をまとめたものを教本として稽古していたものですし、それも戦後GHQから武道を禁止されておりましたから久先生ご自身も撮影(昭和10~13年)から20年を経ての編集でしたので、それを基にした稽古では指導者によっては全く解釈が違ったり、本当はこう動くのではないかと云った様な無毛の論議がなされていました。

基本技を導入しなければいかんともし難いと最初に網走まで教えを乞いに行かれたのは蒔田完一先生でした。これにより四国の実力は格段の上達を観たのです。

関西合気道倶楽部からも小林清泰先生が武田先生に基本技を教わりに網走に行かれました。基本技の重要性について私は目の当たりにしています。武田惣角から久琢磨先生と共に学んだ中津平三郎先生は戦後故郷に戻られ徳島県池田町で教授されていました。その中に千葉先生がおられたのです。千葉先生は蒔田先生の師匠です。私は千葉先生から何度か、蒔田先生からは多大な教えを頂戴いたしました。

勿論、お二方とも昔の武道家に有りがちな狭量な方ではありません。蒔田先生は千葉先生から学んだ技につながるものを求めて熱心に網走に通われました。宗家はもちろん鈴木新八教授代理から多くを吸収されました。千葉先生は自分の弟子から基本技を学ばれた真理を追求する本物の武道家です。琢磨会からも多数の指導者が池田町を尋ね多大な教えを受けました。

目の当たりにしたと云うのは千葉先生の技法です。基本技を研究されるまでの動きとその後に合気開眼された技は全くその醍醐味において別次元のものに映ったことです。基本技が中津平三郎先生から学んだ技に命を吹き込んだのだと感じ入りました。

そして私が網走詣を引き継ぎ、基本技の無かった琢磨会に稽古の糧が供給されました。総本部と琢磨会は別々の運営形態ではありましたが、第二回目までの演武大会は大東流合気武道総本部主宰、琢磨会主管として開催されるようになりました。

その後成長した琢磨会は独自で演武大会を開催するようになり、それを機に武田時宗先生から厳しいお達しを受けることになりました。琢磨会に二カ条までは良いがそれ以上は教えてはならない。剣術も教えてはならない、と命じられたのです。本当に困りました。久先生の弟子であった私が武田時宗預かりと云う形になったばかりに二つの組織で泳ぐことには無理が出てきました。

総本部としては武庫之荘支部を任され、琢磨会では蒔田先生を指導部長に、そして川辺武史先生と私が副指導部長として仲良く教えを受けたり教授したりしていたものですから実に困りました。

この時、私は剣術から合気の動きとヒントを掴んでいましたから剣術を教えなければ上達速度に支障があると考えておりました。

その後ずっと困惑しながらも武庫之荘支部に於いてだけ剣術を指導するようになりました。剣術から柔術を見直し、久先生の残した技法を剣理から研究するようになっておりまして現、白鳳流の基本原理につながる重力理論や一重身奏法などが体の中に出来て来ておりましたが誰にもそれを教授することが出来ませんでした。

そんな時、武田時宗先生が平成五年に逝去されてしまい、総本部内での後継者問題で翻弄された事があり、生前先生から君は武田家に関らず独自の道を進みなさいと言われていたこともあって、独立の道を考え始めておりました。