白鳳流の歴史-3 of 白鳳流合気武道公式サイト


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白鳳流合気武道公式サイト Last Updated 2014-10-15

白鳳流合気武道の歴史


宗家、武田時宗先生との稽古

最初は夏の一カ月、家族を連れて敦賀~小樽フェリーを使い車で参りました。網走湖畔にキャンプを張って道場に通う積りでしたが、大東館道場の前にある武田先生のアパートの一室が空いたので、特別安い料金で貸して頂く事ができました。

剣術も随分稽古をつけて頂きました。おそらく熱心さでは総本部道場の誰にも引けを取らなかったと思います。早朝の剣術稽古には毛沢東軍数百名に包囲された僅か十七名の秋元隊が、抜刀してその包囲網を破り一名も欠くことなく生還した伝説を持つ秋元傳先生もおられました。御自宅で「秋元抜刀隊全員生還」の戦時中の新聞切り抜き記事を見せて頂きながら剣術の何たるかを教鞭頂きました。

先生の口癖は「死ぬ気でやったら必ず死ぬ」でした。何事も生き抜く積りでやれと鞭撻されました。
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武田先生は怪物でした。惣角先生から、お前は六十過ぎるまで人を育てることは出来んだろうと言わしめた人です。うさぎ跳びで六甲山を登る体力で自信に溢れていた私が稽古が終ると毎日ぐったりしていたものです。二回目以降は飛行機で通いました。

当時は女満別までは千歳からプロペラ機を使わねばならず、しかも待ち時間が長く伊丹空港から網走までは一日掛かりでした。以後、時間も旅費も工面しながらの十数年の稽古が続きました。

この間、勤め人から起業して船舶機器を取り扱う会社を創り、仕事は楽しく出来ていたのですが、短期、中期の海外出張が重なり一人稽古以外の稽古が出来ない日々が多々出て参りました。

35歳の時、このままでは、この武道を掴み切れないのではないかと考える様になり順風だった会社の株を創業仲間に買い取って貰い大東流の研究一筋に打ち込むことにしました。プロの大東流家としては二番目となりました。もちろん一番目は武田惣角です。

この時、私の立場はすっきりとはしておりませんで、久先生からの命令で大東館に籍を置いたものですから琢磨会に所属しながら大東流総本部の支部を預かる重婚の身となっていました。これには色々な経緯と事情がございまして一言では言い尽くせません。