白鳳流の歴史-2 of 白鳳流合気武道公式サイト


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白鳳流合気武道公式サイト Last Updated 2014-10-15

白鳳流合気武道の歴史


私の武道との関わり

十代の頃から山とスキーが好きで、スキーなどは雪の無い地域に暮らしながらも年間100日はソリを履いていた年も何回もある程でした。勿論夏場は雪渓にキャンプを張って滑走に夢中でした。この滑ると云う感覚がもたらしてくれた関節と骨の感触と、アンバランスの中にバランスを求める身体操作が後々、合気柔術や合気の合わせやズレの感覚を育ててくれたと思っています。ですから合気武道を稽古される人にはサーフィンなども含めて滑るものは全て勧めております。逆にウエイトトレーニングなど、回転軸を作るため関節を固定する運動はしない様にお願いしております。合気奏法においては一つの関節が動く時、全ての関節が動いていなければならないからです。力みは特定の関節が主として動く時に現れるものだからです。

これと並行して空手にも励んでおりました。特に頭突きを得意としており、頭で竹や煉瓦を割って得意がっておりました。ある日、すべてがゆらゆらする感じに襲われ、2・0あった視力が急激に落ちて行きました。頭突きを三年や五年で鍛えるのは間違いです。ほんとに鍛えるにはじっくり15年はかけないとならないものです。まずは首から鍛えて行かないとなりません。

若さと云うのは早く結果を求めがちで体のことなど緻密に考えません。強さとは何かなども表面的なことにしか思いが至らないのです。

そんな時、ヤクザと喧嘩をする羽目になりました。本物のヤクザとは違う、いわゆるチンピラで組織の準構成員でした。車にいつも積んでいたのでしょう、殴っても撲っても受けるだけの私に苛立ったのか、その木刀を無茶苦茶振り回して来ました。やがて私の車のフロントガラスに大きな植木鉢をぶつけて去って行きましたが、木刀も全て腕で受けていましたから、両前腕は長い間腫れたままでした。あれがチンピラではなくて剣の手錬なら骨は砕けていたであろうし、それが真剣なら腕も命も無かったでしょう。このことを機に日本の古武道を探し始めました。一年位探しておりましたが、この時初めて大東流合気柔術と出会ったのです。
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これが武田惣角から免許皆伝を受けた久琢磨先生でした。当時先生は関西合気道倶楽部を運営されておられました。先生は植芝盛平先生から合気道十段も授与されています。当初先生の支部道場のような処で稽古しておりましたが、中々腑に落ちず正式に関西合気道倶楽部に籍を移しました。ここでも真面目に取り組んでおりましたが私が予想していた武道とは違う様な気がして時折稽古に身が入らない事もありました。

何年か経過した或る時、ご家族の要望で久先生は東京に引っ越され引退されることになりました。その後も先輩達に稽古を付けて貰いながら稽古を続けておりましたが、どうも回る動きが目立ち、どう贔屓目に見ても以前やっていた空手には勝てそうもない動きで、だんだん意欲が薄れてきてしまいました。若いと云うのはほんとに勝ち負けに拘ったり、中々真理を見抜けないものだと今はつくづくそう思います。

次の夏、杉並区の荻窪にある久先生のお宅を訪れ、稽古を辞めさせて下さいとお願いに上がりました。ところが先生は著書を取りだして来られ、それに書名捺印しながら辞めてはいかん、といわれその御著書を私に手渡しながら時宗君の所に行きなさい。と云われました。失礼ながら初めて伺ったお名前でしたので、えっ?時宗君て誰だろうと心の内に思いながらも、はい、分りました。と応えてしまいました。どちらにいらっしゃる方ですか?とお聞きすると網走だと言われました。時宗君とは第三十六代宗家で武田惣角の御子息であると分った時はもはや手遅れでした。その場で紹介状を書いて下さり、以後私の網走通いが始まるのです。